引きこもり英語学習法

素人英語の学習ブログです。

「meet」と「touch」

 

「meet」はただ単に「出会う」という限定された意味だけを持つ言葉ではありません。

「meet」には「対象との距離が縮まって接触する」という幅広い意味があります。

そのため、「meet」はいろんな使われ方をします。

 

My hand met his under the table.

「meet」を日本語の出会うという意味だけだと思い込んでいる人は「私の手が机の下で彼の手に出会った」と訳してしまうかもしれません。

そんな言い方するかな、と日本人ならそう思うでしょう。

確かに日本語の出会うだと、普通そういう使い方はしません。

しかし英語の「meet」は日本語の出会うのような限定された意味ではなく「対象との距離が縮まって接触する」という幅広い意味を持っているので、こういう使われ方をしても別に変じゃないんです。

手と手が出会うなんてお洒落な言い方をするなぁなんて思う人がいるかもしれませんが、別にそういうわけじゃないんです。

お洒落な言い方とか気取った言い回しとか、そういうことではなく、「meet」自体にそういった接触の意味があるだけの話です。

もちろん「touch」という動詞を使ってもいいんですが、こういった場面で「meet」を使うことが別に日本語の「出会う」ほど変ではないんです。

 

「meet」に触れるという意味があるというんなら、じゃあ「touch」と「meet」の違いは何なんだってことになるので、簡単に説明しておきましょう。

まず「meet」の場合、人と人との接触は人間関係としての接触を意味するので、純粋に人が人に触れることを表現することはできません。

例えば、「ジョンがメアリーに触れる」という文に「meet」を使うと、「ジョンがメアリーに出会う」という意味になってしまいます。

なのでその場合は「touch」が使われます。

「私に触らないで」というときは「Don't meet me.」ではなく「Don't touch me」と言います。

「Don't meet me」だと、私に出会わないでという意味になってしまいます。

As soon as John met me, he touched me.
[ジョンは私に出会うなり、私のことを触りました]

 

人と人との文字通りの接触は「meet」ではなく「touch」で表現します。

人と人ではなく、主体性を持たない物体と物体との接触の場合に「meet」が「touch」のように使われることがあります。

My hand touched his under the table.

My hand met his under the table.

基本的にはもっぱら「touch」の方が使われます。

その方が普通だとは思いますが、ただ「meet」が使われることが、けしてそれほど変じゃないってのは知っておいた方がいいでしょう。

個人的には微妙なニュアンスの違いも感じます。

たとえば、「touch」が具体的で実質的な接触を意味しているのに対して、「meet」はちょっと間接的な言い回しに感じます。

「touch」がただ単に触れたという事実を客観的に言っているだけなのに対し、「meet」は手が合わさったみたいな、なんか別なニュアンスを感じるんですよね。

そういった「touch」と「meet」の微妙なニュアンスの違いに注目してみるのも面白いものです。

そのことを意識せずに、ただ単に「meet」を日本語でいう出会うという意味だと思っていると、気取った言い回しだななんて変な勘違いをしてしまうかもしれません。

そうならないためにも英単語一つ一つをしっかり考察して、日本語とは違ったその本質までをも理解していきたいところですね。

相互動詞の「with」の有無

 

英語の相互動詞には、行為を共に成立させている相手に対して前置詞「with」を付けるのか付けないのか問題というのが存在しています。

「fight」は付きます。

Antonio fought with Muhammad Ali.
[アントニオはモハメドアリと戦った]

「meet」は付きません。

Helen keller met Ann sulliivan when she was seven years old.
[ヘレンケラーは7歳の時、アンサリヴァンに出会いました]

talk」は付きます。

He says he talks with aliens every day.
[彼は毎日宇宙人と会話しているそうです]

「border」は付きません。

Ukraine borders Russia.
[ウクライナはロシアと隣接しています]

「mix」は付きます。

No matter what you do, water will never mix with oil.
[何をしたって水が油と混ざったりはしない]

 

前置詞が付く付かないの違いは何か。

主体らの積極性の強さ、意図的か否か、上位存在からの視点の有無、などなど、様々な要因が関係していると言えます。

 

相互動詞というのは複数の主体が、少なからず何らかの形で接触していることを前提としています。

接触するというその瞬間やその事実にだけ重きを置いている場合は、自視点主張型の他動詞になる傾向にある。

「meet」や「border」なんかがそうです。

これらは基本的に接触するという事実にだけ目を向けた表現です。

一方で、接触という行為そのものではなく、接触した後のことに重きが置かれている場合は、共同主体型の自動詞になることが多いです。

「fight」や「talk」なんかがそうです。

これらは主体らが接触した後にさらに共同で何かをやっています。

「mix」は接触の後のことではなく接触そのものに重きを置いてる表現ではあるんですが、動詞自体が上位視点を持つ二層構造になっているため、下位視点を維持するために下位次元型の自動詞となります。

 

これらの判断基準をもとに相互動詞における前置詞の有無について考察すれば、ある程度納得できる答えが得られます。

 

たとえば「kiss」という動詞。

これは単純に接触そのものの意味合いが強い。

なので前置詞は要りません。

それにキスといっても必ずしも唇同士とは限りません。

唇と頬の接触を意味するキスだってあります。

そうなってくると唇同士のキスとは違って、相互性はかなり低いと言えます。

The man kissed his daughter on the cheek.
[その男性は我が子の頬にキスをしました]

 

「reunite」という動詞はどうか。

再会という行為は接触の後ではなく接触の瞬間そのものに重きを置かれています。

そういった観点から言うと前置詞は要らないはずです。

しかし「reunite」には再会するという意味だけではなく、再会させるという上位視点の表現も兼ね備えています。

そのため、誰かを再会させるのではなく自分自身が再会するという下位視点を維持するために前置詞を伴います。

再会する両者は共に上位存在からの影響を受ける同次元の間柄として、相互性があると言えます。

You will reunite with your father someday.
[あなたはいつの日か父親と再会するでしょう]

これを上位存在の立場から表現すると次のようになります。

Destiny will reunite him with his father someday.
[運命がいつの日か彼を父親と再会させるだろう]

 

「exchange」という動詞はどうでしょう。

交換するという行為は主体らの接触そのものを指しているのではなく、接触した後の行為を意味しています。

なので前置詞を伴います。

ただし、相互性があるのはあくまでも交換した相手に対してです。

交換した物に対しては相互性はありません。

主体からすれば交換した物は行為の対象に過ぎません。

交換した相手こそが、自分と同じ立場の共同主体と言えます。

なので前置詞が付くのは相手に対してです。

I exchanged phone numbers with Jessica.
[私はジェシカと電話番号を交換しました]

 

「coexist」という動詞はどうでしょう。

共存するという行為は、両者の接触を意味している動詞といえるでしょう。

しかし、「meet」や「border」と違って、接触するその瞬間やその事実にだけ重きが置かれているわけではありません。

接触した後の両者の関係に意味の重きが置かれています。

そのため前置詞を伴います。

Humans have coexisted with nature since time immemorial.
[人類は太古の昔より自然と共存してきました]

 

このように、相互動詞の前置詞の有無というのは、それなりに判断できるもんです。

ちなみに、接触という行為そのものに着目している場合は、なぜ前置詞を伴わずに表現するのか。

これは触れるという行為そのものにはさほど相互性がないとみなされているからです。

「触れ合う」なら相互性を見出すことはできますが、ただの「触れる」だと相互性があるとは言い難い。

触れ合っているのか、はたまた触れているのか、という判断は実は難しいもんなんです。

場合によっては、一方が触れた側で、もう一方が触れられた側、というように両者の立場に違いが生じる可能性もあります。

こちらは相手を認識しているが、向こうはこちらを認識していないかもしれない。

両者の間に相互性があるかどうかは本人たちが決めることで、傍から判断するようなことではない。

そのため英語では文法上、接触を意味する行為はとりあえず一方的なものとして表現します。

接触という域を越えてさらに相手と関わったときに、相手との間に相互性が生まれる可能性が出てきます。

なので、接触だけを意味している行為なら自視点主張型、接触にプラスアルファの意味がある行為なら共同主体型で表現することになります。

「mix」などの二層構造の動詞は、たとえただの接触であっても、下位視点を維持するため、また上位の立場から操作されているという点で両者の間に相互性が生まれるため、相手に対して前置詞「with」を伴います。

三格配置の動詞

 

A car breaks.

車が壊れる。

これは主語の状態のことを説明している自動詞表現です。

主語自身が壊れている状態に「なる」という意味です。

しかし「break」には「壊れる」という主語自身の状態を説明する自動詞表現の他に、「壊す」という他者の状態を変える他動詞表現もあります。

A bad driver breaks a car.

運転の下手な人が車を壊す。

主語の「運転の下手な人」が自分以外の存在(ここでは車)を壊れている状態に「する」という意味です。

「壊れる」はその状態になる当の本人を主語にした下位の立場からのミクロ的表現。

「壊す」はその状態を作り出す原因を主語にした上位の存在の立場からのマクロ的表現。

このような下位と上位のどちらの立場からの表現方法も兼ね備えている動詞のことを「二層構造の動詞」と呼んでいます。

日本語の場合は壊れる壊すと言葉自体が変わりますが、英語はどちらも「break」という同じ形のままで表します。

主語自身の状態のことを言っているのか、他者の状態を変えることを言っているのかは、動詞の後に目的語が続くかどうかで判断します。

「The car breaks.」で文が終わっているなら、壊れている状態なのは主語の車自体ですが、動詞の後に別の名詞が続いたら、壊れている状態になるのはそちらということです。

「The car breaks the wall.」なら、壊れている状態になるのは「break」の後ろの「the wall」の方です。

動詞の後に名詞が続いたことで、主語の車は壊れる側ではなく壊す側になりました。

いわば下位の立場から上位の立場へと格上げしました。

動詞の後に目的語が続かなければ、動詞の持つ力は主語に返ってきますが、目的語が続けば動詞の力がそちらへと流れます。

これが二層構造の動詞の仕組みです。

 

「stick」も二層構造の動詞です。

しかし「stick」は「break」とは異なる点があります。

「break」は「break」の状態になる本人と、あとはその状態を作り出す上位の存在さえいれば、基本それ以外には何も必要ありません。

なので「A car breaks.」のように、下位の立場から表現するときには主語さえいればそれで充分です。

主語一人で「break」の状態を成立させることができます。

しかし「stick」はそうはいきません。

主語本人だけでは「stick」の状態を成立させることができないんです。

くっつくという状態を成立させるには、何かしらくっつく相手が必要になります。

くっつく相手なくして、自分一人でくっついている状態にはなれない。

The flyer sticks.
[チラシがくっつく]

これでもまあいいんですが、文章上に記されてはいないものの、チラシは必ず何かしらにくっついているはずです。

なので、以下の文のようにその相手にも言及した方が自然です。

The flyer sticks to the utility pole.
[チラシが電柱にくっつく]

ちなみに、上位の存在の立場からこれを表現すると、

Someone sticks the flyer to the utility pole.
[誰かが電柱にチラシをくっつける]

のようになります。

 

ここで一つ、注意しなければいけない点があります。

自分の状態を変えるための相手に対しては、必ず前置詞を付けなければいけないということです。

でなければ、意味が変わってしまいます。

The flyer sticks to the utility pole.

この文章は、動詞「stick」の持つ力の流れが、前置詞「to」で止まっています。

そのため、動詞「stick」の力の流れは主語に返ってきて、主語のチラシ自体がくっついている状態になることを意味します。

電柱はそうなるための助っ人的存在です。

では、前置詞を付けなかったらどうなるか。

The flyer sticks the utility pole.

動詞の後に前置詞抜きで直接相手が置かれています。

そのため、動詞「stick」の持つ力が主語の「flyer」に返ってこず、そのまま後ろの「utility pole」に流れてしまいます。

その結果、「utility pole」がくっついている状態になる、という意味になってしまいます。

そして主語の「flyer」は上位の立場へと昇格して、くっついている状態になる側ではなく、他者をくっついている状態にする側に変わります。

つまり、チラシが電柱を何かにくっついている状態にする、という意味になってしまいます。

チラシ自体がくっついている状態になることを言いたい場合は、前置詞を置いて動詞の持つ力を自らに返す必要があります。

そうすることで、上位の立場になることなく、下位の立場のまま自身の状態のことを表現することができます。

下位の立場からの自動詞表現において、「utility pole」という存在は主語にとって行為の対象ではなく、主語が「stick」の状態になるための協力者です。

いわば、協力者「utility pole」の存在を利用することで自分が「stick」の状態になる、ということです。

それが「The flyer sticks to the utility pole.」という自動詞表現です。

 

本来、相手を必要とする行為は他動詞のはずです。

しかし中には「stick」のように相手の存在が必要な自動詞も存在します。

行為を成立させるために相手が必要なのが他動詞で、自分の状態を変えるために相手が必要なのが自動詞です。

日本語でいうところの「人生を楽しむ」、「人生を悔やむ」のように助詞を『を』で表現する行為が他動詞です。

「電柱にくっつく」、「電柱からはがれる」のように助詞を『を』以外で表現する行為が自動詞です。

 

「mix」という動詞も「stick」と同じ性質を持っています。

「mix」という行為を成立させるためには何が必要か。

まずは、混ざる状態になる本体。

例えばそれを牛乳としましょう。

牛乳が自ら自分で混ざるわけではありません。

誰かしらがそれをやるわけです。

例えばそれを太郎君としましょう。

牛乳が太郎君という上からの操作を受けて混ざることになる。

しかし、それだけではまだ足りません。

たとえば、「かき混ぜる」なら、これだけで成立します。

太郎君が牛乳をかき混ぜる。

これでOKです。

しかし英語の「mix」はかき混ぜるという意味ではありません。

それは「stir」という別の英単語が担当しています。

Taro stirs milk.
[太郎君は牛乳をかき混ぜる]

「mix」は二つのものが一つになることを意味しています。

なので太郎君と牛乳だけではまだ足りない。

牛乳が混ざるための相手が必要です。

仮にそれをコーヒーとしましょう。

上位存在の太郎君、本体の牛乳、相手のコーヒー、これでやっと「mix」という行為が成立します。

Taro mixes milk with coffee.
[太郎君は牛乳をコーヒーと混ぜます]

本体の牛乳の立場からすると、まず上に太郎君という上位存在がおり、そして横には相手としてのコーヒーがいます。

相手のコーヒーは、自分と共に上位存在の太郎君からの操作を受ける同次元の間柄です。

このように三つの存在が、「上、下、下」といった配置で存在しています。

このような動詞のことを「三格配置の動詞」と呼んでいます。

 

三格配置の動詞は、三つの存在が配置されているという点で、第4文型を作る動詞と似ています。

しかし「mix」や「stick」がそれらと違うのは、上位と下位の両方の立場からの表現を兼ね備えているという点です。

つまり、三格配置の動詞は二層構造になっているという点で、ただの第4文型を作る動詞とは異なる性質を持っていると言えます。

英語の面白さ

もしも英語が使えたら。

英語を勉強している人なら誰だってそんなことを考えるでしょう。

というよりも、そんなことを考えるからこそ英語の勉強をしている、みたいなところがある。

そう普通の人は。

 

私はそんな普通の人間ではない、なんて言うつもりはありませんが、私の場合、英語を使えるようになりたいって気持ちが希薄なんですよね。

もしも英語を使えたら、海外旅行をたくさんしたいとか、海外に住みたいとか、そんな気持ちが全くない。

引きこもり人間の私は、誰かとコミュニケーションをとりたいって気持ちがそもそも希薄です。

日本人相手に日本語で喋ることでさえ、そんなに好きってわけでもないのに、いわんや英語をや、です。

 

じゃあなんで英語を勉強しているのか。

英語を勉強するっていう行為自体がなんか好きなんですよね。

本来は、英語を勉強するという行為は英語を使えるようになるための手段のはずです。

でも私の場合、その目的と手段の関係が成立していない感じなんです。

英語学習自体が私にとっての目的になってる。

だから何十年かけて英語を勉強して、その結果英語が使えなかったとしても、別にいいっちゃいいんですよね。

英語の勉強自体がおもしろかったって思えるから。

 

英語圏に生まれてれば英語が自然と喋れたのにって言ってる人がいましたが、その発想も私にはない。

英語圏に生まれちゃったら英語を勉強する楽しさを味わえないじゃないか、って思ってしまう。

第三言語、第四言語って次々と言語はマスターしていく人がいますが、ああいう人の気持ちが私にはわかります。

自分が扱えない言語ってなんか面白いんですよね。

よく面白い映画とか小説なんかに対して、記憶を消してもう一度見たい、読みたいなんて言う人がいます。

もしも英語が使えるようになったら、その能力を削除して、もう一度一から英語学習を満喫したい、そんな気すらします。

でもそれが叶わないから、さらに別の新たな言語の学習をする。

それが次々に言語をマスターする人の心理なんじゃないかと思います。

 

じゃあなんで、自分の扱えない言語を人は面白いと感じるのか。

よく、英語と日本語は全然違う言語って言われます。

ヨーロッパの人に比べると、日本人にっとの英語は難しいって言われます。

日本語と英語、語順からして全く違います。

でも、違っていればいるほど、面白いと感じてしまう。

もし、日本語に似ているそっくりな言語があったとして、たぶんその言語にはあまり興味が沸かないし、学習しようとも思わないでしょう。

それがたとえ世界第一の言語であったとしても。

だからヨーロッパの人が英語を学習するよりも、日本人が英語を学習する方が、より英語の面白さを堪能できていると思います。

 

たとえば、誰かのおかげで自分が幸せな時、日本人なら「あなたがいてくれて私は幸せです」って言い方をします。

でも英語はあまりそんな言い方をしない。

You make me happy.

あなたは私を幸せにします、ってそう言うんですよね、英語圏の人って。

日本人はそんないい方しませんよね。

何じゃその言い回しって感じです。

こういう表現に出会ったとき、痺れるんですよね。

まさに英語が面白いと感じる瞬間。

たとえば、見知らぬ場所で目が覚めた時、日本人なら「どこだここは?」って言いますよね。

でも英語圏の人はそんないい方しない。

Where am I?

私はどこにいるの、って言うんですよね。

日本人からしたらなんじゃその言い方って感じなんですが、これがたまらなく面白い。

 

こういう表現に出会えるから英語学習は辞められない。

 

二層構造になっている相互動詞

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動詞には色んな種類がありますが、その一つに相互動詞と呼ばれるものがあります。

相互動詞の説明として「相手が必要な行為」と言われることがありますが、これは間違いです。

たとえば、殴るという行為は相手が必要な行為ですが、殴るは相互動詞ではありません。

何故なら、殴る側と殴られる側という別々の立場が明確に存在するからです。

そうではなく、行為に対して同じような立場が複数存在する場合、その行為は相互動詞といえます。

なので殴るではなく、殴り合うなら相互動詞と言えます。

この「合う」という言葉が両者を同じ立場にしているわけです。

殴るという行為は「合う」という言葉を足さないと相互性を持たないので、それ自体は相互動詞ではないということになります。

逆に言えば、「合う」という言葉を足すと不自然になる動詞は、動詞自体に既に相互性が備わっているとも言えます。

例えば結婚するという行為には「合う」という言葉を普通使いません。

「私と彼は結婚し合う」とは言わない。

出会うもそうです。

「私と彼は出会い合う」とは言わない。

なので「結婚する」も「出会う」も、動詞自体が既に相互性を持っていると言える。

つまり相互動詞です。

ただ、動詞自体が相互性を持っているけど「合う」という言葉が付け足されるというケースも存在します。

例えば戦うという動詞は「合う」を付け加えて「戦い合う」という風に言っても、別に不自然ではありません。

しかし戦うは相互動詞です。

一方が戦う側でもう一方が戦われる側ということではなく、両者共に戦う側なわけですから。

戦うという行為に対して両者はあくまでも同じ立場です。

「AがBに○○する」や「AがBを○○する」のように助詞を『に』や『を』で表現する場合は相互動詞ではなく、「AがBと○○する」のように助詞を『と』で表現する場合は相互動詞である、という風にも言えるでしょう。

 

英語の相互動詞には相手を自分とともに同じ立場とみなす共同主体型の自動詞と、相手を主体の自分から見た行為の対象とみなす自視点主張型の他動詞とに分かれます。

「meet」を例に見てみましょう。

A meets B.

これは、Aが一方的にBのことを自分から見た対象とみなしています(自視点主張型)。

A meets with B.

これは、AがBのことを自分と共に「meet」に対して同じ立場とみなしています(共同主体型)。

日本語でいうなら、「A meets B.」は「AはBに会う」で、「A meets with B」は「AはBと会う」といった感じです。

 

さて、英語に「mix」という動詞があります。

日本語でいう混ざるという動詞です。

A mixes with B.
[AがBと混ざる]

形だけでいうと共同主体型です。

でも実は、これはただの共同主体型ではないんです。

これは「下位次元型」の自動詞表現の一種です。

 

「mix」には「混ざる」の他に「混ぜる」という意味もあります。

「混ぜる」とは「混ざる」という状況を作り出す一個上の立場からの表現です。

「AがBと混ざる」という文章はAを軸にして表現したものですが、さらに俯瞰の立場からその状況を作り出した原因を軸にして表現すれば、「XがAをBと混ぜる」という文章になります。

これは「ドアが閉まる」という文章が、ドア本人を軸にした表現であるのに対し、その状況を作り出した原因を軸にした場合「私がドアを閉める」という文章になるのと同じです。

本人からの狭い視点で見れば「閉まる」という自動詞表現となり、さらに一個上の俯瞰な視点から見れば「閉める」という他動詞表現になる。

混ざると混ぜるも同じです。

混ざるは本人の状態のことを言っているミクロ視点の自動詞表現、混ぜるは一個上の立場から他者の状態を変化させるマクロ視点の他動詞表現です。

混ざるという行為は対象を必要とするから他動詞なんじゃないかと思う人がいるかもしれませんが、こうやって考えれば、自動詞になるのも納得です。

混ぜるが他者を操作している表現なのに対して、混ざるはあくまでも自分の状態のことを言ってるだけなので自動詞です。

Cold water mixes with hot water.
[冷水が熱湯と混ざる]

I mix cold water with hot water.
[私は冷水を熱湯と混ぜる]

 

混ざるという行為は対象が必要だから他動詞と考えて、前置詞を付けずに表現すると意味が変わってしまいます。

Cold water mixes with hot water.

この文章を前置詞「with」を付けずに表現したらどうなるか。

Cold water mixes hot water.

これだと「冷水が熱湯と混ざる」という意味ではなく「冷水が熱湯を混ぜる」という意味になってしまいます。

つまり、冷水が熱湯を何かと混ざった状態にする、という自分自身の状態ではなく他者の状態を変化させるという他動詞の意味になってしまうんです。

 

日本語では混ざる混ぜると言葉が変わりますが、英語の場合「mix」という同じ言葉のまま、下位の立場からのミクロ視点の自動詞表現と上位の立場からのマクロ視点の他動詞表現と、どちらにも対応しています。

このように下位と上位の二つの立場からの表現を併せ持つ動詞は他にも「close」や「open」などいろいろあります。

こういった動詞のことを私は「二層構造の動詞」と呼んでいます。

「mix」は、二層構造の動詞の中でも、さらに特徴的です。

「mix」という行為は、下位の存在と上位の存在の他に、さらに別の存在が必要になってくるんです。

下位の存在の相方とも言うべき存在です。

冷水はそれ単体では混ざった状態にはなることができず、熱湯という相方を得て初めて混ざるという状態になれるわけです。

上位の存在、下位の存在、下位の存在の相方、この3つが必要になるのが「mix」の特徴です。

下位の存在とその相方は、共に上位の存在からの影響を受ける立場です。

そして、場合によっては上位の存在からの操作を受けて、共に「mix」されることになります。

「A mixes with B.」におけるAとBは、共に上位の存在の影響を受けるという点で共通しています。

このような動詞を「下位次元相互型」と呼んでいます。


ここで「meet」という相互動詞に話を戻します。

A meets B.

これはAの立場から一方的に主張している自視点主張型の他動詞表現です。

まあいうなれば、相手側(B)がこちら(A)に会うと認識しているかは定かではない、それは向こう(B)が決めればいい、とりあえず私はBに会う、そんな意味の文章です。

あくまでもA視点の主張。

ここに「with」が加わると少しニュアンスが変わってくる。

A meets with B.

こうすることで、一方的ではなく両者の間に相互性が生まれます。

これを共同主体型として捉えると、AとBが共に「meet」という行為を主体性を持って意図的に作り上げている、というニュアンスが生まれます。

要するに互いに約束した上で会っているという意味合いが出てきます。

一方で「A meets with B」を「下位次元共同型」であると捉えるとどうなるか。

その場合、自分たちは共に下位の存在で、神様や運命といった上位の存在の影響によって一緒になった、といったニュアンスが生まれてきます。

要するに、図らずもそうなったという遭遇の意味合いが出てきます。

 

この2つのニュアンスはいわば相反するものですが、AとBが主体性や意思を持った人間ならば普通は共同主体型として捉えます。

両者が約束した上での対面、いわば面会といった意味合いです。

Kenneth meets with Jesse.
[ケネスはジェシーと面会する]

一方で、AやBが主体性や意思を持たない抽象的な概念の場合は、下位次元共同型として共に上位の存在から操作される立場と捉えるのが普通です。

図らずとも会う、結果として会うみたいなニュアンスです。

Kenneth meets with kindness of others.
[ケネスは人の優しさと遭遇する]

 

自分たちの意思によるものなのか、上位の存在の操作によるものなのか、という違いはあれど、基本的には「meet with」のイメージは両者が互いに向かい合って面しているような、一緒になったというイメージです。

自視点主張型の他動詞

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行為の主体が複数存在することを前提とし、その複数の主体が互いに作用し合って成立する行為のことを、一般的に相互動詞と言います。

この相互動詞の中には、文法上自動詞として扱われるものもあれば、他動詞として扱われるものもあります。

それらの違いは何か。

 

例えば「figth」という動詞は戦う相手を行為の対象に取らないことが普通です。

I fight with you. [私はあなたと戦う]

あなたと一緒になって戦うという行為を成立させている、という形に文法上はなっています。

これは「talk」も同じです

I talk with you. [私はあなたと会話する]

あなたと一緒になって会話という行為を成立させている。

あなたは私にとって行為の対象ではなく、一緒になって、互いに作用しあって、行為を成立させている間柄、ということです。

いわば「with」という前置詞が、相手を行為の対象ではなく、自分と共に行為の主体であるとみなしている印と言えるでしょう。

しかし「marry」はそうではない。

I marry you. [私はあなたと結婚します]

あなたと一緒になって結婚という行為を成立させているのではなく、私にとってあなたは結婚という行為の対象です、という形になっています。

少なくとも文法上は。

私があなたと結婚するということは、同時にあなたは私と結婚するということでもあるんですが、向こうからの視点は関係なく、自分からだけの視点を主張していることになる。

これを私は「自視点主張型の他動詞」と呼んでいます。

 

相互動詞の中にも、共同主体型の自動詞と自視点主張型の他動詞とがある、ということです。

場合によっては一つの動詞が両方に対応していることもあります。

例えば、先ほどは「fight」を共同主体型の自動詞として例文を紹介しましたが、自視点主張型としても使われることがあります。

I fight an enemy. [私は敵と戦う]

こうすれば、敵とともに「fight」という行為を行っているという意味ではなく、あくまでも自分の視点からだけの、一方的な話をしているということになります。

文法上「fight」は共同主体型でも自視点主張型でも、どちらにも対応できることにはなっているんですが、通例として共同主体型で使われることの方が普通です。

ただ、意思を持たないような抽象的な概念に対しては、自視点主張型として行為の対象という形で表現される傾向にあります。

上の「enemy」もいわば概念としての対象といったところでしょうか。

She was fighting her own fear. [彼女は自身の恐怖心と戦っていた]

 

相互動詞の中でも、何を基準に共同主体型の自動詞と自視点主張型の他動詞に分かれているのか。

こればっかりはなかなか難しいものがあります。

個々の動詞ごとに考察していく必要がありそうです。

 

例えば「meet」という動詞はどうか。

Geroge meets Mason. [ジョージはメイソンに会う]

ジョージがメイソンに会うということは、同時にメイソンがジョージに会うことにもなるんですが、あくまでも自視点主張型として表現しています。

でもこれ共同主体型としても表現できるんです。

Geroge meets with Mason. [ジョージはメイソンと会う]

この場合、二人が同じ立場でお互いに働きかけて、互いに積極的に矢印を向けあって、共に「meet」という行為を成立させている、といった感じが出てきます。

なのでただ会うんじゃなくて、約束して会っているという意味になります。

 

お互いが同じ立場で互いに積極的に作用しあって成立するような場合は共同主体型である、ということなんだろうか。

それを示唆する表現がある。

先ほどから登場する「fight」ですが、この「fight」が基本的に共同主体型になるのは、互いが互いに敵意を持って作用しあっているのが普通だからです。

しかしこれが一方からだけの場合、自視点主張型として表現されることがあります。

James is fighting Ethan one-sidedly. [ジェームスが一方的にイーサンと戦っている]

この場合、ジェームスの側には戦う意思があるんですが、イーサンの方にはその気がなく、防戦しているのかどうしているのかはさておき、互いに戦っているとは言えないような状況、このような場合は共同主体型ではなく自視点主張型として表現されることがあります。

先ほどの意思を持たない抽象的な概念に対しては自視点主張型で表現されることがあるというのも、同じ理屈だと思います。

 

これらの事実から、同じ立場から積極的に相互に作用しあっている場合は共同主体型で表現し、そうでないなら自視点主張型で表現する、ということが言えるのかもしれません。

しかしそうだとすると明らかに矛盾する単語があります。

「marry」です。

 

結婚は普通、互いに協力して積極的に作用しあって行われる行為のように思えますが、「marry」という動詞は共同主体型で表現されることはなく、自視点主張型にしか対応していません。

そういもんだと片付けてしまってもいいんですが、それももったいないので考察してみます。


思うに、昔は結婚ていうのが自分の意思でするものというより、親や家系などの周りの環境によって取り決められていたことだったのかもしれません。

それが証拠に、「marry」は使役動詞を使わずに単体で「結婚させる」という使役的な使い方をすることができます。

She married her daughter to a rich man. [彼女は自分の娘をお金持ちの男性と結婚させました]

そういったかつての文化背景から、結婚に本人らの意思が介在されていなかったがために共同主体型よりも自視点主張型の方が馴染みやすかったのではないか。

あるいは男女の違いがあって、結婚とは女性が男性のもとへ嫁ぐもので、男性の方は嫁に来てもらう側、みたいな感じで、対等な立場ではなかったのかもしれません。

そうだとするとやはり共同主体型で表現するよりも自視点主張型の方がしっくりくるでしょう。

 

単純に形で覚えてしまうのもいいですが、こうやってああだこうだ考えるのも英語を学ぶ醍醐味です。

他動詞「visit」

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移動という行為は、他者に作用せずに自分で自分を移動している状態に変えるという自動性の強い行為です。

なのに「leave」が他動詞なのは何故か。

それは「leave」という動詞が、その行為が行われた後の世界に重きを置いている動詞だからです。

行為の主体がその場から去った後のことまでをも意味に含んでいる、それが「leave」です。

つまり、ただの移動という域を超えた表現です。

leaveの本質は「対象をその場に置いて去る」です。

なので「leave」は他動詞。

 

「reach」が他動詞なのは何故か。

「reach」の本来の意味は、手を伸ばして触る。

つまり、到着した後にその場所に触るという、しっかりと対象に作用する行為なんです。

日本語でいうなら「reach」は、辿り着く。

辿り着くという言葉は場所に重きを置いている感じがします。

だから「reach」は他動詞。

一方で「arrive」は、日本語でいうなら移動を終える。

移動を終えるというのは、主体のことを言ってるだけで、場所に関してはどうでもいいって感じです。

純粋に主体の移動のことだけを言っている。

だから「arrive」は自動詞。

 

では「visit」はどうか。

「visit」の本来の意味は「見に行く」です。

つまりただの移動じゃないんです。

移動した後で、誰かに会ったり、何かを見たり、滞在したりと、そこで何かしらするわけです。

移動はただの前段でしかない。

そういった意味では、「visit」もただの移動系の動詞の域を超えているといえます。

移動した後のことまでもが意味に含まれている「visit」という行為は、移動した後で対象にしっかりと作用する行為、つまり他動詞ということです。

故に対象なしには「visit」という行為が成り立ちません。

I was pleased that you came to visit me.
[あなたが私を訪れてくれて嬉しかったです]

Have you ever visited Spain?
[スペインを一度でも訪れたことはありますか]