Closing Time
I know who I want to take me home.
関係代名詞を学んだころ、私はこの文章に出会って一瞬戸惑ったことを覚えています。
「I know who ~」で「私は~な人を知っている」あるいは「私は誰が~なのか知っている」という意味の文章を作ります。
I know who did it.
[誰がやったか知ってるよ]
「who」自体が後に続く動詞の主体になっているか、あるいは対象になっているので、後に続く文章には主語か目的語が欠けているはずです。
I know who I want.
ここで文章が終わっているなら「私は自分が誰を求めているのかわかっている」という意味になります。
「who」は「want」という行為の対象です。
しかし、ここで文章は終わらず、まだ続きます。
I know who I want to take home.
ここで終わるなら「私は自分が誰を家に連れていきたいのかわかっている」という意味になります。
「who」は「take」という行為の対象です。
しかし、ここでもまだ終わらずにもうひと単語続きます。
I know who I want to take me home.
こうなると「take」の後ろに私という対象がいるから「who」の立場がありません。
なんてこった、関係代名詞「who」の居場所はどこなんだ。
しかし冷静になってみれば、「want」という動詞は目的語を二つ取ります。
間接目的語+直接目的語、つまり「want+人+to不定詞」で、「人に~することを求める」という意味になります。
間接目的語の「人」がない場合は「to不定詞」が示す行為を、主語自身が求めている、という意味になります。
間接目的語の「人」なしで直接「to不定詞」を置いく「主語+want+to不定詞」の形で、主語自身がやりたい行為を主張する表現が多い「want」ですから見落としがちですが、この文章は誰かにやってもらいたい、その誰かを関係代名詞「who」で表しているのです。
I know who I want to take me home.
つまりこの文章は、主語の私が誰かに自分を家に連れてってもらいたいと思っていて、誰にそれをしてもらいたいのかを自分で自覚している、という意味の文章なんです。
いやはやややこしい、って最初は思ったもんですよ。
「take」のあとに「me」があるかないかで、主語の私が誰かを家に連れて帰りたい側なのか、誰かに連れて帰ってもらいたい側なのかが変わってくる。
それはつまり「who」が何を指しているのかが変わってくる、ということでもあります。
「me」が無いただの「who I want to take home」なら私は家に連れて帰る側、「who」が連れて帰られる側、「me」のある「who I want to take me home」なら私が家に連れて帰られる側、「who」が連れて帰る側、ということになります。
どちらの場合も「who」が「I(私)」に「want(要求)」される立場なのは同じなんですが、「take」の主体になることを求められているのか(俺を「take home」しろという意味なのか)、「take」の対象になることを求められているのか(俺に「take home」されろという意味なのか)、あとに「me」が続くかどうかで決まります。
逆に言うと「take」の後を聞かないことには意味が定まらない。
「me」が聞こえた瞬間、あるいは聞こえなかった瞬間に、ネイティヴはそれを一瞬で理解するわけですから大したもんです。
しかしこれも自分で何度も口にしていれば、意味や文の構造が脳に馴染んでくるもんです。
Nobody knows who he told not to come here again.
[彼が誰に「もう二度とここに来るな」って言ったのかは、誰にもわかりません]
これも文の構造としては一緒ですが、こっちはわかりやすい。
「tell」が人という間接目的語をとるのはお馴染みなので「who」の居場所がそこだってのが分かりやすく、to不定詞になってる「come」もふつう人を目的語に取らないで「who」の居場所がそこじゃないってのも明白。
「who he told ○○ to come here again」という感じで、「who」の入るべき空白部分が分かりやすいわけです。
しかしこれが「want」になった途端、意味も構造も見失ってしまったあの頃の私。
しかし文法のルールに当てはめて考えれば、「want」の間接目的語の人が抜けていて、そこに「who」の居場所があるってことに気付けるはず。
そして構造に気付ければ意味も分かってくるはず。
そういう英語の読解って、なんか謎解きみたいで好きなんですよね。