引きこもり英語学習法

素人英語の学習ブログです。

内包型の他動詞とは?

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英語の他動詞は、その行為の対象よりも主語の状態変化に重点が置かれるとき、目的語が省略される。

How well can you throw?

How well(どれだけ上手に)、can you(あなたはできるか)、throw(投げることが)?

目的語が省略されたことで、何を投げているのかではなく「投げている状態」についての話がされているのがわかります。

要は、目的語は今どうでもいいよね、って感じです。

このように、英語というのは目的語がないならないで、主語の状態変化重視の意味で受け取ってもらえる言語なんです。

日本語の他動詞の場合は、必ずしもそうはならない。

試しに日本語の目的語を省略してみましょう。

 

「私は読みます」

なんか足りてない感じしますよね。

「読む」という行為を成立させるには自分以外の存在が必要で、その存在に働きかけてどうこうすることによって、ようやく「読む」という行為が成立します。

なのに、その自分以外の存在について一切触れずに「私は読みます」って言ってるもんだから、なんか足りてない感じがするわけです。

日本語は文脈の影響で目的語が省略されることはあっても、他動詞が同じ形のまま自動詞の機能を併せ持つという性質がないから、主語の状態変化に重点が置かれたことによる目的語の省略がなかなかうまく機能しない。

つまり、「私は読みます」って言ったところで、何を読んでるかはどうでもよくて「私は読んでいる状態になるんです」という状態変化に重点を置いたという意味合いが伝わりにくい、ということです。

英語は他動詞が自動詞としての機能を併せ持つのでそれができる。

I read.

これでOKです。

目的語がなくても、ここでは併せ持った自動詞の機能が働いて成立しています。

対象はさておき私は読んでいる状態になります、という意味です。

どういう意味でしょう。

目的語なしのままもう少し言葉を足してみましょう。

I read everyday.

私は毎日読んでいる状態になります。

毎日読書してるって意味です。

ほとんどの他動詞が同時に自動詞としても機能する英語においては、このように「read」という言葉はそのままで、目的語のあるなしで意味を切り替えて伝えることができる。

でも日本語は、自動詞は自動詞としての意味しか持たず、他動詞は他動詞としての意味しか持たないので、言葉自体を変えることになる。

「読む」から「読書をする」に。

 

これが日本語と英語の違いです。

この違いを理解していないと英語に対する理解が深まらない。

 

冒頭で紹介した他動詞「throw」の目的語省略は、「今対象のことはどうでもいいよね」ってことで省略されてますが、「read」の場合は「言わなくてもわかるよね」って意味合いも強く含まれています。

つまり、「read」という言葉自体に「読み物」という広くざっくりした行為の対象が内包されているというわけです。

なので、目的語をとらないときは、その内包されていた広くざっくりとした対象が顔を出して意味を補う。

日本語の「読む」には内包されてる感じがしないため「読書をする」という言葉がそれに取って代わる。

 

これは「eat」なんかもそうです。

He eats five times for a day.

何をというのはどうでもよくて彼は一日に5回食べている状態になる、という意味です。

目的語を置かずとも、内包されている広く「食べる物」というざっくりとした対象が「eat」という多動詞性の行為を成立させています。

日本語でいうところの「食べる」と「食事をする」の関係性ですね。

 

こういった「read」や「eat」のような動詞を、私は「対象内包型の他動詞」と呼んでます。

目的語なんて無くたっていいじゃない

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なぜ自動詞と他動詞を見極める必要があるのか。

「後ろに目的語がないのでその文章は文法的に間違いです」とならないため?

もしそうだとしたら、それはただの杞憂に過ぎないかもしれません。

何故なら、たいていの他動詞は自動詞としての機能も併せ持っているからです。

 

例えば「kick」という動詞。

蹴るという行為は、明らかに対象が存在してこそ成り立つ行為であり、エネルギーの流れが存在します。

なので当然の他動詞です。

が、しかしです。

たとえこれを目的語なしで使ったとしても、文法的に間違いです、なんて言われる筋合いはない。

 

That horse kicks.

あ~あやっちゃったね、「kick」は他動詞だから目的語を置かないと、って言われたらこう言ってやってください。

いやこれは状態の習性を表しているだけなんです。

 

「kick」という動作は明らかに対象を必要とする他動詞優位な行為です。

そんな「kick」ですら、自動詞としての機能を持つ。

その機能は「対象のことはどうでもいい」という状況の時に発動する。

自動詞の本質は「状態の変化」です。

対象のことはどうでもよく、それよりも主語の「状態の変化」の方が重要事項の場合、自動詞として機能する。

つまり「That horse kicks」という文章は、何を蹴るのかはどうでもよくて、その馬が「蹴るという行為を行ってる状態になる」という事実が重要だ、ということなんです。

そして現在形の文章は、一度きりのことではなく習慣的なことを表現することができる。

よって「That horse kicks」という文章は、その馬は蹴るんだよ(そういう性質なんだよ)、って意味合いになります。

だから気をつけろよとか、だから困ってるんだとか、そんなところでしょうか。

 

とはいえ、自動詞として機能していると言っても、対象を蹴るという行為の根本的な意味合いは他動詞のときと何ら変わっていません。

「I closed the door.」と 「The door closed.」の場合は同じ「close」でも意味が違っています。

他者を閉めた状態に「する」のと、自分が閉まった状態に「なる」の違いです。

それに比べると「kick」は、あくまでも「対象をどうこうして成立する行為」という他動詞の域を抜けきれていません。

そういった意味では、対象は別に何でもいい、どうでもいい、といった理由から省略されているだけ、とも言えます。

 

こういった省略はよく起きる。

例えば「今から何か食べに行かない?」と誘われたときに、

I have already eaten.

「何を」かはどうでもよく食べ終えた状態に「なっている」という状態変化に比重が置かれた結果、やっぱり目的語が省略される。

他動詞で目的語が必要だからといって無理に「a meal」とか置かなくてもいいんです。

もちろん、置いても間違いではないですよ。

ただ、こういった目的語の省略現象が起こる以上「他動詞の後には必ず目的語を置かなきゃ」なんて意識を働かせる必要はありません。

自分で置き忘れるくらい対象のことはどうでもいいって思ったんですから。

Take it easy. [気楽にいきましょう]

映画を見るはsee? watch?

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自分で意識していなくても、感覚器官というのは機能しており、意識するしないにかかわらず感覚器官が情報を捕らえ脳に伝達すれば、否が応でもそれを認識することになる。

そうやって発生した認識のことを「see」や「hear」という言葉で言い表します。

一方で、自分から意識の焦点を絞るという自身の状態変化を意味するのが「look」や「listen」です。

それらとは別に、「事の成り行きを見届ける」という意味の「watch」という動詞があります。

つまり「watch」は「対象がどうなるのか、どうするのか」を見ようとする行為です。

なので、変化が起きる可能性の低いものに対しては普通使いません。

変化が起きる可能性を感じるからこそ「どうなるのかを見よう」とするわけです。

 

ドラマやニュースなどのテレビ番組はもっぱら「watch」です。

ただ、同じ映像作品でも映画館で映画を見る場合は「see」を使うのが一般的です。

映画を見るときは、どうなるのかに注目して見てるはずなのに、何故「see」なのか。

ここからは私の個人的な考察です。

 

映画というのは元々はストーリーのないただの映像を大きなスクリーンに映しただけのもので、当然音もないわけです。

そんなわけで、どうなるかを気にして見るというような感覚があまりなかった。

だから映画に対して「watch」を使う人よりも、「see」を使う人の方が多かった。

時代が進んで映画が物語性を持ち、音声も加わったけど、言葉だけは変わらなかった。

だから未だに「I saw the movie yesterday.」って言うと、昨日映画館に行ってきたって意味になるわけです。

 

あともう一つは「go to see」という表現が一般的だからというのもあるでしょう。

見るために出かけるという意味です。

見ることを目的に外出する場合、それが何であれ、たいてい「go to see」が使われます。

映画ってのはまさに見るためのお出かけなので「go to see the movie」となる。

映画以外でも、お芝居やミュージカルなども全部「go to see」です。

「go and see」や、andが省略された「go see」など、とにかく出かけて見る場合の見るは「see」が使わることが多い。

見る対象が「watch」の方が相応しそうであっても、です。

なんで「go to watch」って言わないんだろうか。

わざわざ出かけてまでしてどうなるのかを見るっていうのが変な感じなんでしょうか。

ちなみに、同じ映画でも、家で見る場合は「watch the movie」になります。

 

他にも「view a film」(映画を見る)、「view a play」(演劇を見る)といった「view」(眺める)を使った表現もあります。

「view」は「視野を広くして見物する」といったニュアンスがあります。

そういった意味では映画館の大きなスクリーンにはぴったりですが、それでも「see a movie」という言い方の方が一般的な気がします。

「view」はどちらかというと景色や景観に対して使われますね。

watch=じっくり見るは間違い

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「look」や「listen」が意識の重点を意図的に移動させるという自分の変化を意味する自動詞なのに対し、「see」や「hear」は感覚器官によって情報を認識するという意味があります。

情報ありきで成立する動作なので、他動詞としての性質を持つ。

Look at that. did you see that?

この文は、「あれに向かって視線を移動させて。あれを視覚によって認知しましたか」という意味です。

感覚器官で情報をとらえ、脳がそれを認識する、それが知覚動作の本質です。

そこから発展した表現方法として「I see.」というのがあります。

「ああ、わかったよ」っていう意味です。

知覚動詞が持つ「脳が認識する」という部分だけを抽出した表現で、五感機能による情報の入手の意味を持たない表現となります。

五感の中で「see」が使われているのは、見るのが認識するのに一番確実だからでしょう。

百聞は一見に如かずってやつですね。


一方で「watch」は同じ見るでも「see」と少し意味が違います。

watch」は、それがどうなるかを見る、という意味です。

ただ見るんではなく、何かしら変化が起こる可能性があるものを「この後どうなるんだろうか」って意識しながら見るという意味合いです。

けして「じっと見る」という意味ではありませんので、悪しからず。

 

I saw a cat enter the house.

この場合、その家に猫が入っていくのをたまたま見かけたという意味です。

猫がその家に入っていくという状況が、特に意図せず私の視界に入ってきたというニュアンスです。

I watched a cat enter the house.

この場合、もともと猫を見ていて、どんな行動に出るのか注目していたら、家に入っていった、という意味です。

 

watch」が「じっくり見る」という意味じゃないのは、次のことからもわかります。

例えば、絵画を見るというときに「watch」は使わないと一般的に言われています。

watch」をじっくり見るって覚えている人は、絵画をじっくり見る場合なら使えるんじゃないかって文句を言いそうです。

でも「watch」の本当の正体は「それがどうなるかを見る」なので、絵画に対しては少し変です。

何故なら、絵画は何も変化が起きないため、別にどうにもならないからです。

そのため「watch」との相性が悪い。

逆に言うと、変化が起こる「映像」というものに対しては相性がいい。

テレビ番組を見るときは、この後どうなるんだろうという変化に注目して見ているので、「watch TV shows」となります。

スポーツの試合なんかも、この後どっちが勝つんだろうって思いながら見るわけですから、「watch」を使うことが多いです。

lookやlistenが自動詞な理由

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他者の存在を必要とせず自分一人で状態を変化させる行為は自動詞、他者の存在ありきで他者に作用することで成立している行為は他動詞、というのであれば、では「見る」という行為は他動詞でしょうか、自動詞でしょうか。

見るっていう行為には、必ず何かしらの対象が存在しています。

対象を必要とせずに見るという行為ができないので、「見る」は他動詞ということになります。

 

日本語の「見る」という言葉は汎用性が高くいろんな場面で使えますが、英語の「見る」はもう少し細分化されており、状況によって使い分けます。

有名なのが「look」「see」「watch」の3つです。

しかしこの中で、「look」だけは他動詞ではなく自動詞となっています。

何故か。

見るという行為は必ず対象が必要になるにもかかわらず。

 

実は「look」の本質は「見る」ではないんです。

見るというより、厳密に言うと「視線を移動させる」です。

目玉を動かしたり、首を動かすという動作は、それ自体は決して対象を必要とせず自分一人で実行可能な動作です。

いわば自分の状態を変化させているわけです。

他者の存在に関係なく、自分一人で勝手に自分の状態を変えている。

だから「look」は自動詞なんです。

「look」という言葉だけだと、実は「何を見ているか」には重点が置かれていない。

だから視線を移動させた先を表す「at」と結びついて、「look at A」でAに向けて視線を移動させる、すなわち「Aを見る」という意味になるんです。

 

「listen」が自動詞になるのも同じような理由です。

聴くという行為自体は何かしらの音がないと成立しない行為ではありますが、「listen」の本質はそこではないんです。

音は本来360度どの方向からでも聞こえてくるものですが、受け手自身が意図的にある方向からの音だけを聞きとろうと自分の状態を変える、それが「listen」です。

強引に説明するなら、耳の位置を変える、ですね。

わかりやすく言うなら、耳を傾ける。

音のあるなしにかかわらず、耳を傾けてる状態になることはできます。

これすなわち、対象の有無に関係なく自分一人でできる行為、つまり自動詞です。

どっちの方向に意識を向けているかを表す前置詞(to)と結びついて「listen to A」でAの方向に耳を傾ける、すなわち「Aを聴く」という意味になります。

 

通常モードから、lookモード、listenモードに切り替える、そしてその状態になってから見るなり聞くなりする。

これが「look」と「listen」の正体です。

自動詞の本質

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自動詞とは、誰もいない、何もない空間で、自分一人でもできる行為。

この考えは実は表面的なもので本質ではない。

なぜなら、確かに自動詞は、誰もいない何もない空間で一人で実行できるんですが、かといって、誰もいない何もない空間で一人で実行できる行為全てが自動詞、ということにはならないからです。

自動詞の本質はそこではない。

 

自動詞の本質は「状態の変化」です。

○○な状態になる、というのが自動詞の本来の意味です。

するんではなく「なる」という感覚です。

「The window opnes.」は、窓が「開いた状態」になるということです。

主語になっている窓が自らの意思でその状態になったわけではなく、主体性はないんですが、それをあえて主語にした場合の表現です。

本当のことを言うと、どこかに主体性を持ってその状態を生み出した原因が存在しているはずなんですが、その原因を無視した表現となります。

原因をしっかり表す言い方がいわば、「I open the window.」です。

 

「I run.」は、私は走った状態になるという意味です。

この場合、主語になっている私が自分の意思で走っているので、その状態を生み出したものと、その状態になったものが一致しています。

そのため、「なる」という状態の変化の意味が薄れて、「する」という感覚が生まれますが、自動詞自体の本質は状態の変化であり、「なる」です。

「I sleep.」は眠った状態になる、「I stand.」は立った状態になる、「I laugh.」は笑った状態になる。

このように、自動詞は己の状態の変化を言っているだけだから、ほかの存在が必要ない、つまり目的語が要らない、ということになるわけです。

 

状態の変化を言い出したら、自動詞に限らずすべての動詞がそうなんじゃないのか、という考え方もできます。

例えば、他動詞の「eat」だって「食べる状態になる」と言えるじゃないか。

ただ、食べる状態になるためには、自分以外の第三者の存在、「食べ物」が必要になる。

その点で「run」や「sleep」とは明確に違うわけですが、ただ確かに、「eat」が「食べる状態になる」という意味を表すこともあるんです。

「eat」の後に目的語を置かない場合、そういった意味になります。

「I eat regularly.」は、私は一定の間隔で食べる状態になる、という意味です。

規則正しい食事をするということですね。

つまり、本来あるはずの目的語を放棄したことで、状態の変化の方に意味の重点が置かれることになるわけです。

このように多くの他動詞が自動詞としての側面を併せ持ちます。

自動詞、他動詞

I opne the window. [私は窓を開ける]

この文は、主語の「I」から発せられた「opne」のエネルギーが「the window」に作用して、その結果窓が開いた状態へと変わる、という意味です。

ここで使われているopenを他動詞と言います。

 

The window opens. [窓が開く]

先ほどはエネルギーの受け手だった窓を主役にした文章です。

動作の結果として開いた状態になる窓自体を主語にしたことで、エネルギーの流れというものが存在しない文章となりました。

自己で完結しており、他者への働きかけがない、それが自動詞です。

 

I run. [私は走る]

I sleep. [私は眠る]

I stand. [私は立つ]

これら全て、他者への働きかけがなく、エネルギーが流れることなく自己の中で完結している行為です。

つまり自動詞です。

自動詞は他者の存在を必要としない。

ちなみに、ここでいう他者とは、人に限らず、物や事象も含めて、広く「自分とは別の存在」を意味します。

 

では、食べるという動作はどうでしょう。

何かしらの「食べる物」が存在していないと動作として成立しない、食べるという動作ができない。

なので英語の「eat」という動詞には、そのエネルギーの流れる先はこちら→、みたいな矢印がおしりに付いている。

I eat apples. [私はリンゴを食べます]

「eat」という動作を成立させるためのものが、その後ろに必ず来ます。

今回の場合は「apples」です。

それを動作のエネルギーが作用する対象ということで、目的語と言います。

「apples」と一緒になって初めて「eat」という動作が成立する。

もし「I eat」の後が空っぽで何もないと、不自然な感じがする。

いわば、荷台部分があるのにコンテナの載っていない大型トラックみたいな感じで、不格好というか、不自然というか。

他動詞の後には必ず目的語を置きましょうと習うのはそう言った理由です。

 

他者の存在ありきで成立している動作は他動詞。

先ほど例で挙げた「走る、眠る、立つ」は、他者の存在が必要なく、自分さえいれば実行可能な動作です。

つまり自動詞と呼ばれる行為は、誰もいない、何もない空間で、自分一人で実行できる。

では「笑う」という動作はどうでしょう。

これは自動詞です。

何もない空間で自分一人で実行できます。

I don't laugh. [私は笑わない]

「laugh」は自動詞なので「eat」のような荷台部分が付いていない。

だから後ろに目的語がなくても不自然じゃない。

しかし逆にいうと、「私は笑わない、彼のことを」みたいに追加情報を載せたいときに、「laugh」の後に「him」を置くことができない。

荷台部分がないわけですからです。

そこでlaughの後に荷台部分となる前置詞(at)をつける必要がある。

I don't laugh at him. [私は彼を笑わない]

「lauht at」の後に何も続かなかったら、不自然です。

荷台部分を付けたのに載せてないわけですから。

これが不自然なのは理解しやすいでしょう。

他動詞の後に目的語がない不自然さは、これと同じというわけです。