自動詞の本質
自動詞とは、誰もいない、何もない空間で、自分一人でもできる行為。
この考えは実は表面的なもので本質ではない。
なぜなら、確かに自動詞は、誰もいない何もない空間で一人で実行できるんですが、かといって、誰もいない何もない空間で一人で実行できる行為全てが自動詞、ということにはならないからです。
自動詞の本質はそこではない。
自動詞の本質は「状態の変化」です。
○○な状態になる、というのが自動詞の本来の意味です。
するんではなく「なる」という感覚です。
「The window opnes.」は、窓が「開いた状態」になるということです。
主語になっている窓が自らの意思でその状態になったわけではなく、主体性はないんですが、それをあえて主語にした場合の表現です。
本当のことを言うと、どこかに主体性を持ってその状態を生み出した原因が存在しているはずなんですが、その原因を無視した表現となります。
原因をしっかり表す言い方がいわば、「I open the window.」です。
「I run.」は、私は走った状態になるという意味です。
この場合、主語になっている私が自分の意思で走っているので、その状態を生み出したものと、その状態になったものが一致しています。
そのため、「なる」という状態の変化の意味が薄れて、「する」という感覚が生まれますが、自動詞自体の本質は状態の変化であり、「なる」です。
「I sleep.」は眠った状態になる、「I stand.」は立った状態になる、「I laugh.」は笑った状態になる。
このように、自動詞は己の状態の変化を言っているだけだから、ほかの存在が必要ない、つまり目的語が要らない、ということになるわけです。
状態の変化を言い出したら、自動詞に限らずすべての動詞がそうなんじゃないのか、という考え方もできます。
例えば、他動詞の「eat」だって「食べる状態になる」と言えるじゃないか。
ただ、食べる状態になるためには、自分以外の第三者の存在、「食べ物」が必要になる。
その点で「run」や「sleep」とは明確に違うわけですが、ただ確かに、「eat」が「食べる状態になる」という意味を表すこともあるんです。
「eat」の後に目的語を置かない場合、そういった意味になります。
「I eat regularly.」は、私は一定の間隔で食べる状態になる、という意味です。
規則正しい食事をするということですね。
つまり、本来あるはずの目的語を放棄したことで、状態の変化の方に意味の重点が置かれることになるわけです。
このように多くの他動詞が自動詞としての側面を併せ持ちます。