動詞というのは、何に重きを置いているかで、自動詞か他動詞かが変わってくる。
行為の主体者の状態変化に重きを置けば自動詞となります。
一方で、その状態変化を成立させている存在に重きを置けば他動詞となります。
「talk」が自動詞で「discuss」が他動詞なのがまさにそうです。
「talk」は行為の主体になる存在が複数必要で、その複数の主体が共同で「talk」という行為を成立させている、その状態に重きを置いた自動詞。
一方「discuss」は、その「talk」を母体に、話し合っている内容に重きを置いたことで成立している行為。
つまり話し合っている議題なくして「discuss」という行為は成り立たない、故に他動詞。
この関係によく似ているのが「arrive」と「reach」です。
日本語でいうとどちらも到着するという意味ですが、二つには違いがある。
「arrive」は到着というよりかは「移動が終わる」という感覚に近い。
移動していた行為の主体がその移動を終えた状態になるという状態変化を意味している。
到着という言い方をすると、まるで場所に重きが置かれているような感じがするけど、そういうわけではないです。
それよりかは移動が終わった「状態」の方に重きがある。
移動が終わったってことは、それは副作用的にどこかに到着したということにはなる。
ただそれだけのこと。
あくまでも「arrive」の本質は、行為の主体が移動を終えた状態に「なる」という主体の状態変化に重きを置いた表現で、「どこに」という場所には重きを置いていない。
つまり「arrive」にとって場所というのはただの結果にしか過ぎず、「arrive」は主体を「移動を終えた状態」にするためだけに存在している行為に過ぎない。
元を正せば古いフランス語で「河岸に着く」という意味の言葉から生まれました。
このことからもわかるように、自分の意思とは関係なく、川に流れ流されている状態からその状態が終わる、というのが元々の意味です。
流されているのが終わるってことは必然的に岸に着いたことを意味しているけど、それを言いたいわけじゃなく、あくまでも流されている状態が終わったということが「arrive」の本意です。
一方で「reach」はそこからさらに踏み込んだ表現です。
「reach」の元々の意味は「手を伸ばす」です。
ただ手を伸ばすだけなら、自分以外の存在に作用せずにただ自分の状態を変化させているだけなので、自動詞ということになります。
しかしそこから意味が発展して、手を伸ばした結果「何かに触れる」という意味を持つようになった。
触れた「何か」の存在にまで意味の範疇を伸ばした。
自身の状態のことではなく、触れた何か、つまり自分以外の存在に重きを置いたわけです。
そうして他動詞「reach」は生まれた。
ただの「手を伸ばす」という状態変化の意味から「手を伸ばして触る」という対象との関わりに意味の重点が移った。
到着するというのも、いわば「場所を触る」という行為です。
場所がなければ触ることもできない。
場所がなければ「reach」という行為が成立しない。
故に「reach」だけでは自立できない他動詞となり、主体の状態変化に意味の重点を置いた「arrive」にとってはただの結果に過ぎなかった「場所」という存在が、「reach」にとっては自分を成立さえるための必須情報として存在しているわけです。
The firefighter soon arrived at the fire scene.
[消防士はすぐに火災現場へと移動を終えました]
We can reach the pyramids by public transport.
[公共交通機関を使ってピラミッドにたどり着くことができます]
「arrive」にとって場所は追加情報に過ぎないので前置詞を伴って追加し、「reach」にとっては行為を成立させるための必須情報なので前置詞なしで当然のようにそこにいます。